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3年4組の系譜

この『3年4組の系譜』は脳味噌から大切な記憶が消えてしまう前に昔の出来事を伝承しておこうと記述しています。 記憶違い・錯誤・追記希望等ありましたら、管理人までご連絡ください。
先日、朝日新聞の『基本の
』というコラムに、自分史のすすめという記事がありましたが、記憶の糸をたどることは『ボケ』防止にもなるそうです。 皆さんも記憶の糸をたぐって20+α年前にタイムスリップしてみませんか?
 
追記すべきトピックスをお知らせください。

(思い出したように追記しています。 あくまで“時々”ですが)
                                    last update '07/09/22 運動会の写真をRevise
お断り:掲載写真は卒業アルバムから抜粋したものです。写真の選択に他意はありませんので悪しからず。
また、皆さんのアルバムに貴重なお写真が眠っていませんか?是非、データの提供をお願いします。
昭和52年4月8日  記念すべき発足の日 
 1組..ない  2組..ない 3組..ない.... もしかして留年させられたのかとの想いが頭をよぎった。 気を取り直して4組の名簿を見た。 あった!! ああ留年しなくてよかったとの想いが頭をかすめた。
 何というクラスだ、担任はA氏だし、選択科目の半端物の寄せ集めクラスではないか! 半端物はそれらしく生きろ!ということでしょうかね?(ひがみモード)
 でもですね、理系のクラスなのに女性が15人もいるんですよ!(幸か不幸かはこのあとでわかる)
4月某日
 クラス役員選出が行われる。 神島が予定通り(?)満場一致組長に選出された。
(別に他意はなかったんだけどね。 でも暗黙の合意はありました。)
 注釈:3年4組には元2年7組(笹岡組)の連中が多数含まれており、神島も2年7組でした。2年の時の神島の活躍(?)が認められた結果でしょう。(2年の時のクラスは名簿(スペシャル版)でご確認ください)
4月某日
 進級テスト(4月模試)の成績が返された。案の定、世界史の成績はさんさんたるものであった。
5月某日
 極楽坂へ遠足、班分けで地獄を見た人・天上の快楽を味わった人が出た
 池田のグループは特に悲惨で、『こんなものくえねえ』の声が飛び交っていた。
 稲場のグループは完璧でした(石崎さん・大門さん ありとう!!『とう』にアクセントが入ります)
 注釈:この遠足の顛末は後のクラス会での最大の話題です。 クラス会が消滅する(最後の一人になる)まで語り継がれることでしょう

 注釈2:この遠足の班分けには『陰謀』があったとの説が流れています。月岡説では16人の女子を2名ずつ8つの班に分け、男子がその班を選択するという形で班分けが行われたとのこと、そして、最も運の悪かった池田・寺嶋がロシアンルーレットの餌食にされてしまったんだとさ


左から石崎さん、大門さん、稲場管理人
作っているのは『やきそば』です。
このグループの料理は最も完璧だったとみていいでしょう。

月下旬 中間試験終了後
 『なんでこんな日に写真なんかとるのよ! 寝不足でお肌があれてるんだから!』というような声が聞こえてきそうな皆さんの眠たそうな顔。目の焦点が合っていない人も数名います。他のクラスのみなさんも似たようなものです。
注釈:なぜか富山高校ではクラス発足間もない5月に卒業写真を撮ってしまう。試験の日ならばさぼる奴はいないと考えた先生方は偉大です。しかし、卒業できなかったらどうするんだろうと考えた人はいませんか?

6月某日
 6月模試 この模試で管理人を含む多数が『この成績では入れる大学はない』と宣告された。(この予言を反面教師にして皆がんばりました。)

6月頃
 この頃、数αは『定積分』に突入、2時間ぶっ続け(確か木曜日だった)の予習は地獄だった。今でも仕事で『』マークをみると拒否反応がでるのは私だけではないだろう。 3年担当ではなかった数学教師から聞いた言葉 『なーに、定積分なんて覚えりゃいいんだよ覚えりゃ おまえら記憶力はいいんだろ』 この言葉を信じ、夏休みには一生懸命問題と答えを覚えたが9月模試は玉砕だった。

6月某日
 昨年度卒業生の『戦績表』が配られた。 (偏差値がいくつで、何処を受けて、合格したか失敗したか、そして何処へ進学したかが一目瞭然で分かるあの資料ですよ。) 受けた大学のパターンから個人名の推定など簡単です。 来年の今頃は、この資料に生き恥をさらすことになるかと思うと、いてもたってもいられなくなる思いがしました。(いささかオーバーか)
 ちなみに、卒業後、部活動の後輩からこの資料を見せられ。 『先輩の分はミスプリですよね! この成績で○○大学に受かるわけがない』と真顔で言われた。
6月某日
 春期球技大会 あえて、コメントは差し控えます(早々と敗退した男子チーム)
 


7月下旬

 夏期補講 えーい、この熱いのに8月3日まで授業をするとは狂気の沙汰か?因みに後期補講も8月21日に始まっていますので、本当の夏休みは2週間しかなかったことになります。
夏休み
 結構なんだかんだと皆さんけっこう学校へ来ていましたよね(勉強しに来ているのかどうかは別として)
 その理由1 : 家にいるとA氏が家庭訪問に来た(数名)
 その理由2 : 学校の方が涼しい(市立図書館の方が涼しいと思うのだが)
           トイレに机と椅子を持ち込んで勉強している方もいました。
 その理由3 : 部活動に燃えるため(約1名)
 その理由4 : 内緒

 学校でよくお会いした方々 神島・斉藤(哲)・長沢・稲場 他にもいらっしゃいましたが失念しました。悪しからず。

 稲場管理人は午後になると吹奏楽部の練習に出かけるのですが、後輩を上手に監視役として使い、A氏接近の報告を受けると素早く教室へもどり、さも一生懸命勉強しているかのように振る舞っていました。(from 某消息筋)

9月1日
 始業式が終わったら即9月模試でした。 さあ、夏休みに学校に出てきてまで特訓した成果を遺憾なく発揮し! と思ったのですが、暑いし、問題は難いし、結局は玉砕だったような気がします。 テスト結果と短冊(偏差値出力の細長い紙)が返ってきたころ、そろそろ夢を見るのはやめなさいという天使のささやきが頭の中で響いていました。
 
9月 運動会準備
 運動会 4組は1組と一緒に青龍団
 デコレーションのペイント作業で神島組長は1組の島田さんにあごでこき使われていました。『神島君! 青いペンキ足りないよ! 早く買ってきて』だったかな
 よく自転車小屋の屋根にも登りました。
 しかし、よく描きましたよね、畳9毎分も!
 前日は雨が降り、開催が危ぶまれましたが、神島組長は『明日は4時集合』を宣言していました。
9月 運動会当日
私は3時半に家を出ました。 家の遠い人は友人宅に民泊?
応援団もがんばりました。あれだけ練習したもんね。
日頃はおとなしい女性方の悩殺(?)衣装も特筆ものです。

最後の団別リレーは異常な盛り上がりをみせた。 青龍のアンカー太田の奮闘は今でも瞼に浮かびます。太田(中央)は2位でバトンを受け取り、白虎を追い抜き。見事一位でゴールインしたのですが。

黄鷲団との点差は僅か2点、青龍団は涙を呑んだのでした。

9月某日(土曜日の午後)
  打ち上げ会 : デコ組は1組の島田さんちの離れ、応援団は上市で
  先生の手入れの情報が入るもなんのその、宴の後にはダルマが何本か転がっていました。
  デコ組の記念写真です。ホームページ立ち上げ当時よりこの写真を捜索しておりましたが、
  長瀬さんが03年11月のミニクラス会に写真を持参してくれました! 長瀬さんに感謝!


この写真を撮ったまではよかったが →

その数秒後にこのような展開になると予想しなかったのは神島組長だけであろう。
10月某日
 文化活動発表会
 稲場管理人はA氏の警告を無視し、吹奏楽部の演奏で指揮をやり、ミルクホールではフルートを吹いてました。 また、意外な活躍をしていた人がいます。 ね、北川君!!
11月の土日
 このころ、予備校の模試が日曜日ことに開催される。(東大オープン、京大オープン、名大模試、東北文理予備校模試などなど)

 
11月某日
 国語(現代国語)の林先生のありがたいお話。 『君たち、今更、急に勉強したって成績が伸びることはありえない。 特に、英語は絶対無理だよ。 一つだけいいことを教えてあげよう、受験科目にフランス語かドイツ語を選ぶことだ。 はっきり言って、ドイツ語やフランス語なら結構な点数をとれる可能性がある。 なーに、本屋へ行って簡単な文法書と大学院の入試用のテキストをやれば、大学入試問題などなんとかなる。少なくとも、英語より点数はとれるはずだ』 この話を聞いて、一瞬、実行に移そうかと思った者がいたとかいなかったとか。

12月24日
 共通一次プレテストを医科薬科大学で受けた。 浪人するとこのテストを正式に受けなければならない。国語のH先生はことあるごとに『君たちは現役で落ちたら、必ず二浪する。共通一次の対策は9ヶ月ではできない!!』とことある度に言っていました。

昭和53年
1月
 10日を過ぎると、みんな学校に来なくなりました。出席率は約半分というところでしょうか? 一応、期末テストらしきものもありましたが。受けた人は少数?皆さんそれどころではないということでしょうか?(という管理人も形ばかりの期末テストが終わった後は、3年4組の教室へは顔を出さずじまい)

2月
 私立大学受験の最盛期 皆さん、結構とびまわっているのかと思いきや、案外私立を受ける人は少なかったんですよね。(関西系の大学の地方試験が金沢で行われていましたが、ここでは結構な数の富校生にお会いしましたけど)
 家にいてもヒマ(のわけないだろ 勉強せんかい!)なので、毎日学校へ来ていました。(でも、教室へは行きませんよ! 午前中は社会科教室、授業中に食堂でうどんを食べてから、午後は??? な、神島組長)

3月3、4日
 世間様は雛祭り、我々は受験の天王山 国立一期校の受験日
 我々は国立一期二期の最後の世代。記念すべき学年なんですよね?
 受けた学校によって差はありますが、数学や理科の試験時間の長かったこと。理科なんか2科目で3時間が普通でした。(翌年から、このような長時間の試験は姿を消す)

3月10日
 とうとう卒業式 入試の結果をはかなんでさぼるヤツはおらず、全員出席 みんな校長先生と力一杯握手しましたか?
 打ち上げ会は確か西中野の公民館
 家に帰ったのは夕刻7時頃だった。(学生服着て、赤い顔して、よく補導されなかったものだと今になって思う)

3月23、24日
 卒業証書はもらいましたが、まだ高校生です。一期校で玉砕した人・二期校が本命の人、それぞれの思いをかけて、国立大学二期校の入試日です。 
しかし、3年間遊び暮らしたつけは重くのしかかります。我々はこの苦悩からいつ解放されるのか?

3月31日
 この日をもって、昭和53年度の3年4組は消滅しました。
 しかし、 90回生の3年4組の足跡は永遠に(?)不滅です!

                               おしまい


駄文を最後まで読んでいただきありがとうございました。
記憶の糸は切れていませんか?

   追記:読者の皆様のリクエストにお応えし,3年4組の系譜『その後』を計画中(2007年9月)

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